保津川に生きる人

第2回 2010年10月17日放送

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再生時間:13分59秒

※番組中の応募や告知、日程等は2010年のもので既に終了しています

保津川下りの船頭さん
保津川下りの船頭さん

亀岡盆地を流れる保津川は、京都市右京区京北町の上流から発し、宇治川、木津川と合流して淀川となり、大阪湾に注いでいます。「保津川」は、おおむね亀岡中心部から嵐山までの呼称で、そのほかに「桂川」「大堰川」とも呼ばれています。亀岡から京都まで、急流を舟で下る「保津川下り」は観光名所として有名です。

嵐山までの約16 キロを2 時間かけて下っていく舟下りは、季節や水量によって、見えてくる景色が違い、年間約30 万人の観光客が訪れています。海外からの観光客も多く、保津川下りの魅力は国境を越えているといえるでしょう。この保津川に生きる船頭衆へのインタビューを通して、川をめぐる歴史や文化、現在抱える環境問題を、クイズ形式で紹介します。

保津川検定第2問:保津川下りができるのは、誰のおかげ?

西村昭弘(レポーター)×武田慶美(パーソナリティー)

棹に挑戦するレポーター・西村 明弘
棹に挑戦するレポーター・西村 明弘

西村:保津川は亀岡市を流れる一級河川で、材木を筏(いかだ)で運ぶ歴史があります。794年、現在の京都に「平安京」が造営されました。そのときに、大量の材木が保津川で流されました。8本の材木をつなげた「連」を12連、長さおよそ50mの筏が京都まで下っていきました。この筏流しは豊臣秀吉の時代でも、大阪城築上のために必要とされました。江戸時代になると保津川は、とある人物によって大きく開削され、船の通行もできるようになりました。
武田:その、とある人物っていうのは誰なんですか。
西村:ここで保津川検定第2問です。この保津川を開削した人は誰でしょう。
武田:う~ん。わからないです。
西村:正解は角倉了以(すみのくら・りょうい)です。近江の国、現在の滋賀県の商人だった角倉了以は、保津狭を船が通過することができれば、丹波の生産物を京都や大阪に運ぶことができるということに注目し、保津川の開削に乗り出しました。それが今からおよそ400年前のことです。こうして丹波の国と京都、大阪の物資流通ルートが完成しました。

保津川検定第3問:昔、保津川を下った船はどうやって戻ってきた?

保津川下りの船頭 森田孝義さん(聞き手:西村昭弘)

――いきなりですが、ここで保津川検定第3問です。昔、保津川を下っていった船は、どうやって亀岡まで戻ってきたでしょうか。現在はトラックで運ばれているんですけど、昔はもっと違った方法で船を亀岡に戻していたんです。

森田:正解は「曳舟(ひきぶね)」です。昭和23年ごろまで1艘につき4名の船頭が乗船してまして、嵐山から亀岡まで船頭が、船の先に結びつけた50mほどの綱を3人で協力して、岩場の細い道を上流まで引っぱり上げたことを「曳舟」というてました。ひとりは中で棹をさして、岩に当らないようにして、それで4~5時間かかって亀岡までたどり着いたという話を聞いております。

保津川「筏流し」の復活運動

保津川筏復活プロジェクトのリーダー 河原林 洋さん(聞き手:西村明弘)

復活した筏下りのようす
復活した筏下りのようす

――この保津川をめぐる新しい動きを紹介しましょう。2007年に始まった「保津川筏復活プロジェクト」は、保津川の「筏流し」を再現することで、流域のつながりを復活しようとする試みです。その中心人物、河原林さんにプロジェクトについてインタビューしました。

河原林:1200年前から行われている「筏流し」を抜きにしては、保津川の歴史・文化は語れないってことで、2007年には日吉ダムで一回筏をつくり、2008年に保津川下りの乗船場の前で筏をつくって、昨年、保津狭から嵯峨嵐山まで流した。まあ、そうですね、この保津川の流域文化を考えていく中で、やっぱりこの川を中心に経済活動や文化活動が行われていましたんで、そのシンボルとして「筏流し」を、亀岡市民であれ、その流域住民に知っていただく、そのひとつの手がかりとして、復活の活動をやっています。

出演

  • 河原林 洋さん(保津川筏復活プロジェクトリーダー、保津川遊船企業組合船頭衆)
  • パーソナリティ:武田慶美
  • レポーター:西村明弘

制作スタッフ

  • 企画、ディレクター:西村明弘
  • 映像・音声収録:西村明弘
  • ミキサー:上田久人
  • 企画協力:黒川孝宏さん(亀岡市文化資料館館長)、
    保津川下り乗船場、
    保津川保存会、
    亀岡市文化資料館